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横浜市南区の不動産会社栄都

内覧できます!! ぜひ現地をご確認ください!!

2013年1月20日 日曜日

 

12月中旬にまだ外構ができていない状態の全体写真を載せて、そのままになっていました。

申し訳ありません。

現地販売会の旗が余計ですが、全体としてはこんな感じになります。

日中(上の写真)と夕方(下の写真)では、家も違った雰囲気になります。

あまり、他にない色調だと思います。

と言っても、写真じゃお伝えするにも限界がありますので、ぜひ実物をご確認ください!!

土日に限らず、当社にご連絡いただければいつでもご案内します。

 

夜しか時間が無い…という忙しいかたでもできるだけ対応します!!

港南区笹下の由来とは・・・

2012年4月22日 日曜日

港南区は、昭和44年10月1日の行政区再編成により南区から分区

され新設されました。

区名は一般から募集し、区名審議委員会の審議により、応募区名案の

港南区、大岡区、日野区などの中から選定され決定されました。

横浜市の南部に位置し、大岡川と柏尾川の流域の低地と多摩丘陵の延長で

ある台地とからなる起伏の多い地形です。

古くは自然丘陵に囲まれた農村地域でしたが、鎌倉街道沿いに市街地が

発達しました。

昭和5年に湘南電気鉄道(現、京急本線)が開通し、上大岡駅が開業して

沿線の開発が進みました。

昭和35年頃からは宅地開発、市街化が進み、その後も大規模開発が行われました。

これらの都市化に対応して幹線道路、交通網、下水道などの都市基盤の整備が

進められています。

港南区の町名は、大久保、上永谷、芹が谷など谷戸や谷に因(ちな)む町名が

多く付けられています。

 

笹下の由来は、昭和52年の住居表示施行に伴い、

笹下町、磯子区森が丘二丁目、田中町、森町の

各一部から新設された町です。

古くは久良岐郡(くらきぐん)下笹下(雑色村、松本村、

関村の下郷三村をいう)で、笹下村といい、明治22年の

市町村制施行の際、日野村、矢部野村、田中村、

栗木村、上中里村、峯村、氷取沢村と合併して日下村

大字笹下となり、昭和2年、横浜市に編入して笹下町と

なりました。

「佐々木」を地名としてこれが後に「佐々気村」から

「笹下村」に転訛(てんか)したという説があります。

武内廣吉氏は、間宮氏が、ここに築城(篠下城)した際、

先祖の発祥地の近江国篠筍(ささき)郷の地名を、この

地域につけたのが「篠下」の地名の起こりで、これが「笹下」となったといいます。

笹下五丁目にある東福寺の文禄元年(1592年)鋳造の梵鐘に「笹下雜色村」とあるのが、笹下の地名の初出

といいます。

中央を笹下川(大岡川)が流れ、笹下釜利谷道路が通っています。

このような歴史のある地に、当社自社物件の売地(笹下5丁目)があります。

是非、ご覧下さい。

港南区笹下4丁目にあった幻の城・・・”笹下城”

2012年4月21日 土曜日

みなさんは、笹下にお城があったという話を信じますか。

幻の笹下城といわれている城は,今の成就院のあたりの高台を中心として,

築かれた戦国時代のお城です。

しかし,調査が充分行われないうちに,洋光台の開発の波にのみこまれた

ために,その内容が詳しくはわからないので,幻の城とも言われています。

このお城を築いたのは,小田原北条氏に仕えた間宮豊前守信元であったと

されています。

杉本(笹下四丁目)辺りから見渡すと,山あり,谷ありで,その間にはいく筋もの

川が流れていました。

さらに,その外がわには,北に日野川,東に笹下川,南に笹下川支流がめぐり,

西側には険しい山があります。

いざという時には,ここから大船にあった玉縄方面へも連絡する事が出来ました。

 

 

 

 

 

間宮氏の陣屋は,現在の「洋光台入

口」の信号から西の山を背負った

平地にあったと考えられています。

城址と言われている成就院は、横浜

市南部の金沢道(現笹下釜利谷道)

のバス停「日下小学校前」から、曲田

橋で笹下川を渡り、西に坂を上がると

成就院があり、この付近の高台が戦

国時代の城であったと言われています。